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2008年6月30日 (月)

日本SMはなぜ「縄」か

 ぼくの専門はSMである。SMというと、ぼくら世代の人間は、たいていは団鬼六さんの『花と蛇』が出発点いうことになる。
 しかしそうではないのも少数ながらいたのである。フランス人作家ポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』で西欧のSMにかぶれた派があって、ぼくはそちらのほうだ。
 この二派は和装派と洋装派、羞恥派と苦痛派などというように、あらゆる点で対照的なのだが、日本人は『花と蛇』に代表される日本型SMを圧倒的に好み、ぼくのような『O嬢』型SMは反主流派というか異端派に属する。
 たいていの人が「SM」というのは日本も西欧も同じようなものだと思っているが、実際のところ、そのありようはまったく違う。先回、フランス文学研究家鹿島茂さんの『SとM』(幻冬舎新書)を紹介したが、それを読むとこのあたりの差異を的確に説明していて感心した。
 ぼくらは現実のSMにのめりこんでいるから目の前の状況しか見えない。ところがひとたび海外のSMに目を向けると「これが同じSMか!?」と、驚いてしまう。その第一が日本人の好む縄を西欧人は重視しないし、彼らが重視する鞭を日本人はそれほど好まないという点だ。
 この差は今まで「西欧は牧畜文化、日本は農耕文化」だからと片づけてきたのだが、それだけではないようだ。
 西欧SMはキリスト教文化のもとにあったから「原罪」とか「贖罪」(しょくざい)「犠牲」などという概念がSMの土壌になっている。さらにキリスト教のタブーというものがSMを苦痛を味わう方向へと走らせる。そこで鞭による処罰、拷問というものが主流になる。
 一方、宗教的タブーが寛容で同性愛もオナニーも許されていた日本では、罪とか罰とか言われてもピンと来なかった。そういう状況でMが求めるものは何かというと「自由を徹底的に奪われること」なんである。
 だから日本のマゾはまず「縛って」というし、サドも「縛ってやる」という。こんなに縄で縛ったり縛られたりするのが大好きな変態が多い国は日本ぐらいしかない。
 ぼくは手先が器用ではないからあまり複雑な縛りは出来ない。だから適当に縛れればそれでいいと思うのだが「縄師」などという専門家たちは時間をかけ工夫をし複雑極まりない緊縛を施さないと満足しない。これは西欧人からみれば——ぼくから見ても「過剰な倒錯」である。どうして日本人はこんなに縄による緊縛SMが好きなんだろうか。そのうち、また詳しく説明しよう。

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2008年6月23日 (月)

もてない男のセックス

 六月九日の昼過ぎ、上野から秋葉原に向って歩いていた。するとパトカーやら救急車やらすごい勢いですっとんでゆく。空中にはヘリがぶんぶん飛びかってる。「何かあったな」と思って近づいていったら救急活動の真っ最中。血まみれの被害者の周囲には所持品が飛び散っていて、それは悲惨な光景だった。もう少し早めに現場に着いていれば、ぼくも被害者になったかもしれない。それを思うとゾッとしたね。
 犯人の加藤智大という二十五歳の男はどうして罪もない、そもそも彼とはなんの関係もない人々を殺さなければいけなかったのだろうか。現時点では、動機の一つに「女性にもてない苦悩」というのが指摘されている。
 彼がずっと書き込んでいたネットの「もてない男」掲示板には、いかに自分が女性に縁がないか、その恨みつらみがえんえんと書き込まれていて、読んでいて息苦しくなるほどだ。
《ちゃらんぽらんに生きてるニートにも彼女はいるのに、一生懸命仕事をしてきた私に彼女はできなかった。女性にとって真面目な男性はプラスのステータスじゃなかった》《目の前をカップルがいちゃつきながら歩いている。なぜこんなに不愉快なのでしょう》《この世で彼女がいないのはオレだけ》……。
 自分は「不細工』だから、彼女ができることは絶対ないと思いこんでいたらしい。当然セックスできないことの悩みも強かったろう。しかし、どんなにもてない男でも風俗に行けば快楽は得られる。
 事件の直前、彼は先輩に連れられてソープへ行っている。初めての体験だったようだ。ところが楽しい思いを味わえなかったらしい。《二度と行きたくない》と書いている。いったい何があったのだろうか。緊張してうまくできなかったのか。
 もし、この時に「楽しい」と思えたなら、違った展開になっていたのではないだろうか。風俗のあるおかげで、もてない男たちもセックスの満足感を味わっている。しかし犯人は楽しめなかった。嫌悪感さえ抱いたようだ。そこが残念でならない。
 ぼくも若い頃はもてたわけじゃないから、その苦悩だけは共感できるのだ。もし彼が何かのきっかけで女の子と仲良くなっていたらねえ……。世の中はホント不公平だ。(溜め息)

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引き締める快楽

 川上宗薫という官能小説家がいた。彼の作品は毎回違った女性とセックスして、その内容を詳細に書きつづるという、いわば性交ドキュメントのようなものが多かった。だから亡くなるまで何百何千人という女性を相手にした。
 その宗薫さんが晩年嘆いていたのが「洋式便器の普及」だった。ラクをして排泄できるようになった結果、女性の粘膜トンネルはユルユルになった——というのである。
 他ならぬ宗薫さんのことだから、この説は信用できると思う。昔から下半身を鍛えている女性——今は見かけなくなったけれどバスの女車掌など——は「具合がいい」という定評があった。今ならさしずめバスガイドだろうか。
 では「下半身を鍛える」というのは、具体的にどういうことだろうか。それは「骨盤底筋(こつばんていきん)群」という一連の筋肉を強化するということだ。
 女性が出産すると膣の周囲の筋肉がダメージを受けた結果、ゆるくなるのは避けられない。子宮をふくめた内臓の位置も狂う。そこで経産婦はたいてい、骨盤底筋群強化体操というのを教わっている。知りたければ子供を生んだ女性に尋ねてみなさい。まあ怒らせないようにね。(笑)
 この体操の原理は「肛門を引き締める」というところにある。肛門の筋肉は膣の筋肉と繋がっているから、肛門が絞まれば膣も絞まる。その肛門を引き締める力は腹筋とか臀筋とか大腿筋だ。早くいえば和風便器にしゃがんでイキむ時に力が入る筋肉。宗薫先生の説は正しかった。洋風便器ではこれらの筋肉が鍛えられることがないのだ。
 といって便器を取り換えることなど、いまの女性たちが許すわけがないので、男性がより楽しみたければパートナーに骨盤体操をしてもらうようお願いするしかない。
 この訓練を熱心にやった女性とイタしたことがあるが、腰を動かしている最中に「締めるわよ」と言われたとたん、激しく往復していたピストンがピタリと停まってしまった。強く締めつけられて進むも引くも出来ないのだ。いや、気持ちいいというより痛いぐらいだったよ。それぐらい効果があるのだ。
 実はこの運動、男性でも効果がある。昔から肛門を引き締める運動というのは男性のセックスの機能も高めると言われている。いろいろなやり方はあるが、要は肛門を内側にひっこめるようにして締めつければいいのだ。まあダマされたと思って一日何分かやってみるといいです。メタボ対策にもなりそうだ。

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2008年6月11日 (水)

子供時代の性

 東京・弥生美術館というところで『山川惣治展』というのをやってたので、観に行ってきた。
 最近の人は聞いたことがない名前かも知れないけれど、戦後、少年向けの絵物語作家として大活躍した人だ。最初のヒット作が『少年王者』で、その次に『少年ケニヤ』も人気を集めた。後に復刻されているので昭和生まれの世代は何となく覚えてるのではないだろうか。どちらもアフリカの密林のなかで日本人の子供がターザンのように猛獣や原住民たちと闘う冒険談だ。
 ぼくは戦後隆盛した少年雑誌で育った世代だから山川惣治の絵におおいに影響された。要するに「ターザンの子供版」なのだから健康なお話しなんだけれど、山川惣治の描く腰布一枚の半裸の少年には不思議なエロティシズムが感じられた。
 特にぼくの記憶に残っているのは、主人公の少年が原住民に捕えられて、地面に打った四本の杭に手足を縛られ、大の字に拘束されて責められるシーン。どういうものか、その絵を見て胸がドキドキして息苦しくなったのを覚えている。小学校一年か二年ぐらいの年齢だった。あるいはそれがぼくを最初に興奮させた性的なイメージだったかもしれない。
 その絵が、『少年王者』のものか『少年ケニヤ』のものか、確かめたい気持もあって展覧会に行ってみたのだが、記憶にあいまいな部分もあって、どちらだったか確かめることはできなかった。どっちの主人公も同じようなキャラクターイメージなのだから仕方がない。
 ただ相手役の少女が『少年王者』は「すい子」という日本人で、『少年ケニヤ』では「ケイト」という白人。だったらどっちの少女が出ていたかで作品の区別がつくはずだ。
 ところが不思議なことに、どちらだったか覚えていないのだ。あれだけ熱心に、胸をワクワクドキドキさせながら読み耽っていたのに、かわいい少女のキャラクターが思いだせない。
 ということは、小学校一、二年生の頃のぼくはかわいい少女よりも裸で動き回っている少年のほうに関心があったということになる。性的な興味も彼の方に抱いて、やはり半分裸の少女ヒロインには向けられていなかったわけだ。
 そのうち、性的な関心は女の子だけに向けられるようになったのだが、性に目覚める一時期、男の子は異性よりも同性の裸体にエロを感じる瞬間があるようだ。あなたはどうだったろうか。
『どらえもん』のしずかちゃんの入浴シーンを咎める大人がいるようだが、男の子は案外、感じていないのかもしれないね。

(画像は山川惣治『少年ケニヤ』より。ケニヤが土人に捕まって拷問されるシーン。ドキドキ)

Syonen_keniya

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2008年6月 1日 (日)

Mの女はズボラでわがまま?

 フランス文学研究者の鹿島茂さんが最近『SとM』(幻冬舎新書)という本を著した。日本人とSMの関係を自分なりに解釈されている。
 ご本人は「ぼくはイヤになるほどノーマルな人間」とケンソンしているけれど、嫌いじゃなければ研究などしないわけで、実際はそのケがありそうだ。プレイもしてるのじゃないか、って気がする。
 それはさておき、思わず膝を打って笑ってしまったのが「あなたはSかMか」という鹿島流?判定術。
 封書が届いた時、あなたはそれをどうやって開封するだろうか。いちいちハサミやカッターを探してキチンと封を切る人はS。面倒くさいとばかり、ビリビリと手で破る人はM——だという。
 ぼくはいつもレターオープナーを使って開封する。とてもではないが、どんな相手からの封書でも封を指でビリビリなんて破けない。ぼくはSが強い性格なので、この判定術はズバリ当たっているだろう。
 どうしてそうなのかは本を読んでもらえば分かるけれど、だいたいにおいて、今の日本では、Sが几帳面でマゾがズボラだ——と鹿島氏は見抜いたところが鋭い。実際、Mの子の部屋は散らかし放題で、行動もあまり計画性がない。
 そういう彼女たちから「ご主人さま」と呼ばれたがるSの男性は、彼女たちとデートするとなると、綿密にプレイの予定を組んで、必要な道具を揃え、頭のなかでイメージプレイを繰り返して現場にのぞむ。まあ、そうやって練り上げた計画なんて、ズボラでわがまま勝手なMの子を相手にしてはたちまち崩れてしまうのだけれど。
 鹿島さんも少し触れているけれど、ぼくがいつも思うのは、日本のSはサディストなんてものではなく「サービスプレイヤー」のSだということ。「さあ私を喜ばせてちょうだい」とデンと構えているM女性をいろいろな方法でせっせと楽しまようと涙ぐましい努力を惜しまない男——それがS男性なんである。
 その結果、どういうことになるかというとMはSに失望し、新しい「ご主人さま」を求めて去ってゆき、とり残されたSはくやしがったり悲しんだりする。いったいどっちがSやねん。
 そういう妙ちきりんなSとMの関係になるのは、日本のS男性が「ご主人さま」がどういう存在であるべきか誤解しているからだと思う。これは大きなテーマなので、後日、また論じてみよう。

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