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2009年11月

2009年11月30日 (月)

なぜか目に心地よく

JR高田馬場駅から山手線外側沿いを新大久保方向へ歩くと狷介老人の事務所。
その途中にある、「7年の時を経て……」で紹介したガレージの並び。
ある日、ふっと「おや、かわいいスクーターだ」と思った。色がいい。というか置かれている店のドアの赤い色との対比がいい。
そこで店を見てみた。何度も前を通っていたのに、こんな店があったなんて初めて気がついた。(だから壊されても「あれ?ここには……?」と思ってしまうのだね)
どうやら以前はコーヒーショップだったよう。今は「CLOSED」の札がかけっぱなしで、中をのぞくと個人の仕事場というかスモールオフィスになっているらしい。主(あるじ)が通勤の足に使っているのがこのスクーターなのかな。ひょっとして女性かも。

何の変哲もない街角の光景だけど、こうやって切り取ってみると何か目に心地よい。
気をつけてみるとスクーターは週日は必ず置かれている。どうして今まで目に留まらなかった。

ところでこのスクーターは、何という機種なのだろうか?

(2009年11月。高田馬場4丁目)

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2009年11月14日 (土)

西麻布もシャッター街

の仲間入りをしそうな気配です。

独自なティストの「大人のグルメ街」を形成してきた西麻布ですが、やはり不況の風は吹きすさんでいるようです。あちこちで閉店する店が目立ちます。
これまでは入れ替わりが激しかったものの、潰れたあとにはすぐ次の店が入ったものです。最近は次の店が入るまでの期間が長くなってきました。
そうすると、前の記事に書いた、空き地を見て「はてな、ここには何があったんだろう?」と思い出せない現象と同じことが起きます。
「あれ、ここは潰れる前は何の店だったんだっけ?」
不思議ですね。毎日のように見ていたのに、何だったのか思い出せないまま茫然と立ちつくす場所が増えました。


それにしてもシャッターが降りたままの店舗があちこちに目立ちます。地方都市のシャッター街化と同じ現象が、わが街をも侵食してきてるようです。
リーマンショック以前から計画されていた店舗ビルが続々と完成してしまったせいも大きいと思います。不況になるのが分かっているのだからそんなにビルを建てなくても……と思うんですが、どんどん建ててきたんですね。そのあげくが空室の氾濫です。当たり前でしょう。

いま西麻布で一番活気があるのは、のりぴー騒動で「薬箱」として注目されたクラブ(ディスコ)ぐらいじゃないでしょうか。気取ったフレンチやイタリアン、創作和食系の店は青息吐息状態。森閑として灯も暗い街から大人が姿を消し、ラリった若者の騒ぐ声だけが響くというのもね……。

冬来たりならば春遠からじ。西麻布に春は来るんでしょうか。心配になります。まあ狷介老人はこのあたりで飲み食いすることは稀なので、関係ないといえば関係ないのですが……。

(↓木枯らしが吹くと共に、開くことのないシャッターが目立つようになりました。六本木通りに面した霞坂。09年11月)

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(↓六本木通り『エーライフ』に面して、退去していった店が目立つテナントビル。『わだ玄』というのは和田アキ子の店ですが……。09年11月)

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(↓ 同じビル。わずか4、5ヶ月前は活気があったのですが……。09年6月撮影)

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(↓大通りから少し入ったところ、地下にあった高級和食店が閉じられました。オープンしてから一年もちませでした。「隠れ家」的な目立たない店が西麻布の特色ですが、あまりに目立たなすぎたのでしょうか。手前は横浜に本店がある老舗の中華料理レストランなのですが、ここもにぎわっているのを見たことがありません。)


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(↓ 一番最初の写真の並び。クリスマスを最期として撤退した小さなバー。よく外国人の若者たちが屯していましたが……。2009年12月)

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(↓ 多忙なビジネスマン、深夜の遊び人に重宝されたビジネスホテル。閉鎖されて久しい。レストラン、酒場、定食屋、寿司屋などのテナントで賑わっていたのだが、今はブロンクス的廃虚。2009年12月)

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(↓ 私の住み処からすぐのところにあったイタリアン・レストランも、気がついたらひっそりと閉店していました。けっこう人気があったお店なんですがね……2010年3月)

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(↓ こちらは終夜営業で人気があった公衆スパ。地下から温泉をくみあげていたが、渋谷の温泉ガス爆発事件の余波を受けて閉店、その後、閉鎖されたまま放置されている。営業期間はわずか1年ぐらいだったはず。2010年3月撮影)

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2009年11月10日 (火)

街角の疑問符(ここには何が……?)

歩きなれた道をぶらぶら歩く。目に入るもの、すべて見慣れた風景である。
突然、空き地に出くわす。
いつの間にか一軒の家、一棟のビルが取り壊され、更地にされている。
「ほう、ここは建て替えられるのか……」
そこで、いったいどんな建物がここに建っていたか思いだそうとする。
何度も何度も、その前を通っていたはずである。
「はて……?」
立ち止まって考える。「この家とこのビルの間でしょ。この家もこのビルもよく見慣れているし、いまこの瞬間も覚えている(当たり前だ)。だったら無くなった建物も覚えているはずだ」
なのに、思い出せない。頭のなかが、ここにあった建物と同様、更地にされているような気がする。

実際、この写真の更地(もう工事が始まっているが)も、前に何が建っていたか思い出せない。
いくら考えても思い出せない。
土地の持ち主が設置した「?」の看板は、「さあ、次はここに何が建つんでしょうか。注目してくださいよ」というメッセージなのだが、ぼくには「さあ、ここには何があったんでしょうか。思い出せますか?」と問いかけているように思える。

ん……、何があったんだっけ。うーん、思い出せん……。

この記憶喪失現象はぼくだけかと思っていたら、かなり普遍的なものらしい。心理学的に説明もされているようだ。自分にとって重要でなかったものは、見ていても(実は)見ていなかった——ということなのだろう。

(↓ 港区麻布十番にて。09年11月9日撮影)

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2009年11月 6日 (金)

夜の吉野家

六本木6丁目店です。

この写真、我ながら気に入ってるんです。
しみじみとした夜の街の雰囲気が出てるじゃないですか。
おりしも、客が一人、入ってゆく。その後ろ姿。

「それがどうした。ごくふつうの情景じゃないか」

と言われるとそれまでなんですが、日付を見てください。


元日の夜、ひとり吉野家で夕飯を食べる……。
なにか切なくなりませんか。
入ろうとしている男性の肩に「都会に住むひとり者の哀愁」がずしりとのしかかっているのが見えてきませんか。
吉野家さんには悪いけれど。(^_^;)

アメリカの狂牛病騒ぎで、吉野家もはこの時、牛丼を停止していました。代替の豚丼もヒットせず、客は「すき家」「松屋」「なか卯」に流れてゆきました。

吉野家の明かりもなぜか暗く見えます。吉野家にとっては「暗い時代」だったんですね。

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金の切れ目が縁の切れ目(ヴェルサーチ撤退)

六本木ヒルズけやき通りのヴェルサーチ直営店。
03年の開業以来、ずっと営業してきたけれど、09年10月をもって撤退してしまった。
ここばかりではなく、日本にある残りの店舗もすべて撤退し、広報機能さえ残さなかった。
バブル期の日本ではヴェルサーチはアルマーニと並ぶ最高級売れ筋ブランド。日本人は大のお得意さんだったはず(新庄とか野村夫妻とか)。
景気が冷えて売れ行きが見込めないとなると、ぷいと袖を振って見捨てるわけね。

まあそういったブランドものとはまったく縁がない狷介老人だから、撤退しようが何しようが関係ないけれど、中国には08年10店を進出させて、なおも出店攻勢をかけてるらしい。(09年10月現在、21店舗を展開している)
つまり貧乏になった日本を見限って、金持ちが増えてる中国市場に的を絞るというわけだ。落ち目の日本の立ち位置をよく分からせてくれるじゃないの。金の切れ目が縁の切れ目。花魁ヴェルサーチのお大尽さまは入れ替わってしまった。

でもねえ、ヴェルサーチが似合う日本人って何人もいないし、それは中国人でも同じだと思うけどねえ……。
こうやって見ると、海外ブランド衣料品てのは、まさに「虚飾の布」ですなあ。

(↓ 六本木ヒルズけやき坂ショッピングモール店。撮影は2006年1月)

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(↓ヴェルサーチ撤退後の店舗跡。2010年2月)

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2009年11月 4日 (水)

新宿丸物を知ってるかい?

思わず笑ってしまった。(笑)
手元にあるのに、何度も見てたはずなのに気がつかなかった。

新宿丸物

「マルモノ」ではない。「マルブツ」である。
京都にあった有名百貨店(のちに近鉄と合併、近鉄百貨店京都店として営業し、先年閉店)。
戦後、池袋に進出して西武百貨店の北隣に開店した。
今は西口に東武、東口に西武の二軒だけになったけれど、池袋の戦後は、東口には三越、丸物、西口には東横があって、五店が五つ巴の百貨店戦争をやらかしてたわけだ。
最初に脱落したのが東横で(東武に敷地建物を明け渡して撤退)、その次にダウンしたのが丸物だった。これは西武に明け渡した。
狷介老人が老人になるずっと前、日芸の江古田にいた時はまだ池袋丸物は存在していて、買い物をしたこともある。昭和40年代初頭に撤退した。
この池袋丸物は東口正面(現在のPARCO)だから、けっこう写真は見つかった。
問題は新宿丸物である。

よせばいいのに丸物百貨店は新宿にも進出したのである。
これも狷介老人が大学生時代に存在していた。
存在していたけれども、かすかな記憶しかない。

デパートらしからぬ店

そういう記憶がなんとなくある。
もともと敷地を買ってそこに百貨店用の建物を建てた――というちゃんとした百貨店ではないようなのだ。
それまであった商用ビルを買って、そこにテナントを入れる形だったらしい。
まあ今でいうショッピングモールということかな。
詳しくいうと、新宿駅周辺の闇市を整理する際、露店業者が出資して作ったのが「新宿百貨店サービスセンター」で昭和29年に開業した。
これが営業不振だったので、翌30年に丸物が買い取り『マルブツストアー』として開業した。
そこにはストリップ劇場の『新宿ミュージックホール』が入っていて、そこはガンとして居座ったので、「ストリップ劇場がある百貨店」というありがたくない看板をもらってしまった。それが原因でもあったのか不振をきわめ、昭和40年、ついに伊勢丹に土地建物を売却して撤退せざるをえなかった。
営業期間は10年であった。買った時からケチがついたような建物だったから繁盛するわけはなかったのだろう。
その跡地に建ったのが現在の「伊勢丹男の新館」なんである。 開業は43年。

しかし、この「新宿丸物」の写真が見つからない。
狷介老人のあいまいな記憶と突き合わせたいと思い、いろいろ探してみたのだが、なかなか無いのだ。ここは角筈の都電停留所があったので、都電関係の写真集には必ず登場する場所なのに、アングルの関係でか、写って見えるものが見つからないのである。
だから、どうにもこうにも「新宿丸物」の記憶を今に甦らせる手段がなかった。
そうしているうち、このブログで新宿南口旅館街というのを扱うことになった、その資料がどっかにあるかと思って写真集をひっくりかえしていたら、いきなり新宿丸物の看板が目に飛び込んできたんである。

それを探してる時は見つからず、ほかのものを探してる時に見つかる。

マーフイの法則でもあるんだろうか。
ともあれ、ここにその画像を(出典を明記して)載せておこう。
出典は、『旧旭町旅館街』と同じ、『1960年代の東京~路面電車が走る水の都の記憶』(写真池田信、毎日新聞社、08/3)である。

ほとんどの人が覚えていないし「そんなものがあったか」と疑うのだが、ご覧のようにちゃんと存在したのである。これが証拠である。エヘン。(笑)

しかし低層だね。3階か4階だ。売り場面積もそんなに無かっただろう。しかもストリップ劇場が入ってるのだ。客が入ったとは思えない。みな伊勢丹か三越に行くわなあ、それは。(笑)

不思議なのは、この頃若き狷介老人はストリップ劇場には目が無かったのである。
しかし新宿ミュージックホールには行っていない。
仕送り大学生の身には高かったのかな。

(この項目はmixi日記09/11/3から転載したものです)

(↓ 写真中央にある丸いネオンサインが乗っている建物が新宿丸物。右手ならびに新宿松竹会館、停留所は「角筈」。通りは靖国通りである。撮影は1962年11月)

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(補遺)看板を読むと「マルブツストアー」とある。
微かな記憶では、女性用の衣類、小物、アクセサリー売り場が多かったような気がする。
庶民はそれなりの品物は伊勢丹、三越で買い、安くてもかまわない品をマルブツで買っていたようだ。つまり『安売りの店』という評価だったらしい。

(補遺2)一説によると、丸物は渋谷にも進出して、その店は現在PARCO part1 のところに在った——という。これも結局、西武に売却して撤退したわけだが、本当にそういう店舗(たぶんここもマルブツストアーであったろう)があったのだろうか。資料と写真を探しているところだ。何か情報をお持ちのかたはご教示いただければ幸いである。

新宿駅南口旅館街(2)

新宿南口の旭町(あさひちょう)が木賃宿密集地帯だったとは『新宿南口旅館街』で記した。
昭和52年の住所改正で一帯は新宿4丁目とされた。「ドヤ」と呼ばれた木賃宿は「桂屋旅館」側ばかりではなく、明治通りを挟んだ向かい側、天竜寺裏手に陋巷街を形成していた。これが現在に至る新宿南口(木造)旅館街である。
『1960年代の東京〜路面電車が走る水の都の記憶』(写真:池田信、毎日新聞社、08年3月刊)を見ていたら、「旧旭町旅館街」を撮った写真が掲載されていたので、出典を明記したうえでここに転載しておく。撮影は1962年7月。
昭和でいえば37年。電柱がコンクリートに入れ替わりつつある時期。アルミサッシはまだ普及していなかった。

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その後、2009年11月にこの写真と同じ場所と思われる地点で旧旭町旅館街を撮影してみた。
↓ほとんどまったく往時の面影を残していない。残る木造旅館は道路左側に見える『相模屋支店』など3軒のみ、数軒がビジネスホテルに転業している。

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(追補)2013年7月、かつての旭町に生まれ育ったかたから「上の写真と下の写真は違う位置です」と指摘がありました。どうも別の路地のようです。下の写真は現在の旧旭町の雰囲気としてお捉えください。

 

2009年11月 2日 (月)

桂屋旅館の晩年(2004年6〜8月)

高島屋タイムズスクエアが完成し、南口一帯が再開発の波に洗われて、旧旭町の木造旅館街は、廃業また廃業していった。そのあとには若い人向けの衣料店、雑貨店、飲食店が進出してきた。つまりタイムズスクエアの高島屋や東急ハンズや紀伊国屋書店にやってくる客向けのショップだ。そうなれば、かつてドヤと呼ばれた旧い木造旅館など、ひどく浮いた存在になってしまう。いや、沈んだ存在か。(笑)
この通りを歩く若者たちはみな「なに、この建物?」と驚いて振り返っていた。
2002年に『千花』が廃業してから、この通りたった一軒の旅館となった桂屋旅館は、それでもしぶとく営業し続けていた。
ただ2004年6月にコンコースデッキに立ってみると、かつて屋根の上に背伸びするように組み立てられていたネオンサインが取り外されていた。
「ああ、自己主張をやめたのか」
そんな気配を感じたものである。そのかわり宿の玄関脇にはマクドナルドのどぎつく赤い看板が立った。

(↓ 2004年6月撮影)Za040622004ryokan

(↓2004年9月撮影。マクドナルドの案内看板の陰になる。若者たちの街から完全に遊離した存在になっていた)

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(玄関は壁と樹木のおかげで昼なお暗いが、佇まいはまっとうな旅館のそれであった。JTB認証旅館ということで時刻表の末尾のリストにも掲載され、それを読んで予約の電話を入れるひとも少なくなかった。何より料金が安かったという理由で)

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2009年11月 1日 (日)

新宿駅南口旅館街

新宿駅南口旅館街——というと、おおかたの人は首を傾げるのではないだろうか。
そういう街区があったのである。
場所は、新宿駅中央口から甲州街道の陸橋をくぐり抜けたところからまっすぐ進み、明治通りに突きあたるまでの道路、東側である。今でいえば新宿高島屋百貨店がそびえ立つ東側の道を挟んだところで、若い人向けの衣料雑貨店や飲食店が並ぶ賑やかな通りである。旅館など一軒もない。

新宿駅は東口中央口が駅ビル(マイシティ)が建っていち早く変貌を遂げた。
次に西口に小田急京王のデパートが建ち並び面目を一新した。
1980年代も早いうちに東口西口は今と変わらない姿になった。ところが甲州街道陸橋がある南口はいつまでも変わらなかった。低層の木造やモルタル造りの民家ふうな陋屋がぎっしりと立ち並ぶ、戦後闇市時代のスラム的な、猥雑な雰囲気を残す陋巷がずいぶん最近まで残っていたのだ。
旅館街もその一つだった。

明治通りに面して日通支店と倉庫が最近まであった。これはその真向かいに国鉄の貨物積込ヤードと貨物専用の駅と操車場があったからだ。つまり今、高島屋デパートのあるところだ。
狷介老人が学生の頃は、郷里に荷物を送る時は、ここにあった日通の小荷物取り扱い所に「チッキ」と呼ばれる鉄道手荷物便として送るのが常だった。今のように宅配便とか宅急便というものが無い時代、大きな荷物は苦労してここまで持参しなければならなかった。そして係員の不親切なことといったら!
梱包に少しでも不備があるとつっかえされるのである。泣き泣き持ち帰り梱包をやり直さなければならないのである。まあ共産圏諸国で役所に何かを頼むのと同じ雰囲気であった。(笑)
クロネコヤマトの宅急便が始まってあっという間に日通の小荷物便が凋落したのは当然のことである。日通ペリカン便がいつまでたっても弱小なのは、当時の庶民の怒りがまだ解けていないからである。やつらはどんだけ民を困らせたことか。
う、いかん、日通の問題ではなかったのだ。本題に戻ろう。

駅の周辺には必ず安い旅館がひしめく。
旅館のなかでもいわゆる「駅前旅館」というのは比較的財布の暖かい層が利用した。今でいえばシティホテル。そうでない、仕事でキチキチと旅する層は、もっと宿泊費の安い「商人宿」というのを選んで泊まった。また、最終の列車を逃したとか、一番の列車で発ちたいという遠方の客などもここを利用した。今でいうビジネスホテルだ。そういった安宿が、この貨物ヤードの塀とは道を隔てて反対側にズラリと並んで「ドヤ街」を形成していた。かつては「旭町」と呼ばれたこのあたりに十数軒ぐらいがひしめいていたのではないだろうか。
片側が国鉄敷地であるから何もない。旅館街も玄関だけしか明かりがつかず飲食店も一軒もなかったから、夜も早い時間に通りは暗く、寂しくなった。田舎者にはちょっと怖いぐらいのひと気の少ない陰鬱な通りだった。

その雰囲気は90年代前半まで残っていたが、国鉄がJRになり、1994年に国鉄精算事業団から土地を買った高島屋資本が、ここにタイムズスクエアという複合商業地域を出店することに決めた。一帯の再開発が始まると、よどんだドブ川に大川の水を流しこんだように、陋巷街はたちまち賑やかな商店街へと変貌を遂げていった。遂げざるを得なかった、というか。
目の前にタイムズスクエアがそびえ立つことになる南口旅館街は、そういう再開発の波に洗われながら、一軒また一軒と廃業し、跡地にはビルが立ち並んでいった。

それまでは日通の小荷物扱いの時にしか用がなかった狷介老人が、この通りを眺めるようになったのは、1996年に高島屋新宿店が開業してからだ。
南口から陸橋を渡りデパートに入るコンコースデッキを行くと、その左手向こうにまだまだ陋屋がひしめいていて、何軒かの旅館も残っていた。それがある時、気がつくと二軒だけになっていた。
ここに掲げるのは最後の二軒のうちの一軒『千花』である。撮影は2002年7月。どういった旅館だったかは想像できると思う。かならずしも連れ込み宿ではなかったが、まあそういう客たちも利用したかもしれないね。
この旅館は先に述べた桂屋旅館より早く、この写真を撮影した直後に廃業、取り壊された。以後、この通りに残るのは桂屋旅館だけとなる。

(2002年7月撮影)

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この一画についての観察、考察は何人かの先人がすでになされている。ここでは参考ページとして、

http://www.chs.nihon-u.ac.jp/soc_dpt/ngotoh/tokyo/photo/1999/22.html

をあげておこう。
また、旧旭町旅館街について分かったことを補遺として書いておくと、
——現在は新宿4丁目とされている旧旭町は、明治通りによって東西に二分されているが、もともとは一体化されている地域である。明治18年に新宿駅が設置されると鉄道によって往来する者の宿泊施設が必要となったとして、明治政府は旭町を木賃宿地区に指定した。これが旭町木造旅館街(ドヤ街)の発端である。
高島屋サイドの旅館街が一掃されたのと比べて、大宗寺周辺の明治通り東側地域には、一時より激減としたとはいえ、まだ数件の旅館が残存している。
しかしビジネスホテルやカプセルホテルに押されて、これら旧態の旅館が消えるのも遠い日ではないと思われる。
そういった事情は、こちらのサイトに詳しい。

http://www.gi100.net/01_kikou/shinjukuyonchome.html

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