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2011年10月

2011年10月 3日 (月)

上から見た三原橋センター

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4月27日、銀座で人と会い、三越新館で食事。
2010年9月にオープンしたのだけれど、来るのは初めてだ。銀座三越は、もっぱら地下食品街ご愛用で、上に昇ったことなどめったにない。新館にはレストラン街ができたので、それで訪ねてみたわけだ。
食事のあと、トイレのところの窓から見下ろしたら、晴海側がよく見えた。
眼下には特徴のある、晴海通りを挟んで対称の位置にある二つの建物。
「おお、三原橋センターだ」
かつて晴海通りは、ここで三十間堀という運河を渡っていた。昭和20年、空襲を受けた東京は瓦礫の山の処理に苦しんだ。そこで銀座から東の大小の運河は、瓦礫を処理するためにどんどん埋め立てられてしまった。三十間堀はそうやって消えてしまった。その土地は民間に売却されたらしい。
当然、三原橋も消失してしまった——と思われていたけれど、実は近年になって「三原橋は残っている」という再発見の報があちこちから伝えられている。

どういうことかというと……、
どういうわけか三原橋の橋脚の下だけ、埋め立てられず空間として残されたのである。
その空間を利用して地下道が造られた。地下道の両側には店舗が設けられた。つまり地下街が出来ちゃったんである。どうもこのあたりの闇市に店舗をもっていた業者たちが、話しあってそのような方向へもっていったらしい。
それが今に残る(多くの人は知らないが)「三原橋センター」である。
その地下街の天井は湾曲している。かつての橋桁がそのまま梁として利用されているのである。
まさしく「三原橋は生き残った」のである。

で、その地下街の両端の出入り口に、対称的な二つのビルが建てられた。現在は三原橋センタービルなどと称せられているが、当初は「三原橋観光会館」のA館とB館と命名された。
写真の右手に見えるのがA館、左手、居酒屋『傅八』、『銀座シネパトス』というシアターコンプレックス(3幕)が入っているのがB館である。

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(↑これがB館。当初の雰囲気をよく残している。撮影2009年8月)

このビルを設計したのが、フランク・ロイド・ライトの直弟子だった土浦亀城(つちうら・かめき)だ。
土浦亀城はアメリカのライトの設計工房「タリアセン」で、信(のぶ)夫人と3年を過ごし、帰国した。ライトとしては自分の思想を日本に広めてくれる弟子だと思ったに違いないが、亀城は師を裏切る形でモダニズム建築に走る。
亀城の作品は、野々宮アパートなど、広く知られたものはどんどん毀されて、今残っているものはほとんど無い。最近は上野の西郷会館(大衆食堂じゅらくのあったビル)まで姿を消した。
その残り少ない作品の一つが、ここに見える三原橋センタービル2館なのである。A館のほうは囲われてしまって、B館との双子ビルだということが分からないほどだが、こうやって上からみると、左右対称に作られた双子の建築だということがよく分かる。
誰も指摘しないから私が言うのだけれども、土浦亀城はこの二つのビルを、かつての三原橋の欄干に見立てたのである。地下に生き埋めにされた三原橋の存在をせめて知らしめるために、ここにビルの形をした欄干を建設して、生き埋め橋の供養としたのであるよ。夢々疑うことなかれ。(笑)
どちらも建物の端角にRをもたせ、床から天井までの高い窓をもうけて見晴らしのよい、機能的な作りにしてある。私は左手のビルの二階にある『傅八』で酒を飲みながら、窓の外、晴海通りの夜景をおおいに楽しんだ。

Photo

ちなみに私が土浦亀城に入れ込んだのは、実は夫人の信(のぶ)さんのファンだからである。長らく幻の恋人でもあった(いや、私より50歳は年上。思想家、吉野作造の長女。昭和初期を代表するモダンガールだった)。この夫婦は実にカッコよく昭和のモダニズムを具現し体現しつつ生き、1990年代に没した。彼らの住居は東京都指定重要文化財として品川区長者丸に現存している。
(下画像は土浦亀城・信夫妻)

Photo


三原橋センターに関するサイトはいくつもある。下記を参照されたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/aromanonnon/21112252.html

http://www1.c3-net.ne.jp/hamachan/tetudou-ima-3-1.htm

私の土浦亀城夫妻に関する記述は以下を。

http://jun1tate.blog25.fc2.com/blog-date-200604-10.html


倒れた墓石

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4月2日の土曜日、ポカポカ陽気に誘われて青山方面にウォーキング。
大震災の影響など、東京はほとんどない。ただ放射性物質の降下を恐れてマスクをかけた人が目立つ程度。それとて花粉症のシーズンだからいつもの年と変わらない。
建物で倒壊したところなど皆無だろう。私の借りている高田馬場のマンションの事務所では、キッチンの壁の隅にヒビが入った、その程度だ。

しかし、青山墓地のなかを歩いていると、墓石が倒れている。
わりと新しそうな墓だ。どうも震災で倒れたものらしい。
他には見られなかったから、よほど施工が悪かったかしたのだろうか。

ただし墓石というのは地震に弱い。震災の地では墓石は軒並み倒れてしまう。
地震に対処するなど全然考えていない。
耐震性をもたせた墓の設計というのを考えるべきではないだろうか。
特に青山霊園は港区の避難場所として指定されている。ここに大勢の人たちが逃げてくる時、墓石がひっくりかえって人的被害が出ることも考えられるからね。

3.11 直後のスーパー

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3月11日は、余震がかなり激しかったので、私は一歩もマンションを出なかった。
ようやく外へ出てみたのは、翌日になってからだ。
都心、麻布の風景は、大地が時おり揺れるのを除けば、ふだんと変わりのない世界であった。
とりあえず当座の食料を確保……と、六本木ヒルズけやき坂下のスーパー『フードマガジン』へ赴き、二階の食品売り場にあがって「あッ」と思わず驚きの声をあげてしまった。
ほとんどすべての棚から食品が消えている。
8年以上、このスーパー(24時間やってる)に通っているが、こんな光景を見たのは初めてだった。
人が、災害が起きた時に真っ先に行動するのは、やはり食料の確保だろう。
私もそう考えていたが、ふだんはモノがあり余るほどの都心で、人がこのように行動するとはまったく考えていなかった。
「そうか、買いだめしなければダメなのか」
思ったけれどもう遅い。どこの商店からも「とりあえず食べられるもの」の姿が消えてしまっていたのだから。
それとトイレットペーパー。
まあ、家には米の買い置きもあったし、副食品などなんとでもなる。トイレットペーパーは二、三週間はもつほどあった。なにシャワートイレだから紙などなくても何とかなる。だから、考えてみればそんなに焦ることはなかった。しかし一時は背筋が寒くなったのも事実だ。
「みんながふつうに使う量だけ買っていれば、こういう全量消失という事態は起こらないのに」と言われるけど、目の前でみんなが買いだめに走っている時、超然としていられる人はいないだろう。
特に子供がいる家庭は。
「少しのんびりしすぎたかな」
反省した私は。それから数日は早起きして、買いにくくなった必需品、パンや牛乳などを入荷した直後に買った。いわゆる「買い出し」だ。
予想していたように一週間しないうちにほとんどの物資は潤沢に供給されるようになり(ガソリンはかなり逼迫していてクルマを使う人はしばらく不便を強いられたようだが)、私の買い出し行為も何日かで終わった。
「被災地のことを思えば、なんということない」
これがその間の我が家での合言葉だったが、たぶん全国どこの家庭でもそうだったのではないだろうか。
しかし、それでもあのがら空きの棚を見た時の衝撃は……。
画像を見返して、忘れないでおいたほうがいい記憶だと思い、このスーパーが廃業したあとになってアップロードしてく気になった。

(この画像を撮影したけやき坂のスーパー『フードマガジン』(西友系)は、2011年8月に閉店撤退した。9年間の営業であった)

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