カテゴリー「街歩き」の記事

2012年1月12日 (木)

ビルの外壁補修が目立つ

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5月13日。
六本木通り沿いの雑居ビルが、外壁の補修工事を始めて全体がシートで覆われている。
聞けば、大地震の時、外壁のどこかが壊れて破片が路上に落下したそうだ。もし通行人に当たっていたら惨事になるところだ。
けっこう古い、築40年は越えているだろう。それぐらいだと外壁もそうとう劣化している。持ち主(個人、最上階に住んでいる)は驚いて外壁補修に踏みきったものらしい。人的損害が出たら大変なことになるからね。
と思ったら、近隣のビルやマンションが何棟か、外壁の補修工事を始めた。やはり破片の落下があったらしい。高層建築物のあるところ、地震があったら頭上から何が落ちてくるか分からない。気をつけよう。


2011年10月 3日 (月)

上から見た三原橋センター

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4月27日、銀座で人と会い、三越新館で食事。
2010年9月にオープンしたのだけれど、来るのは初めてだ。銀座三越は、もっぱら地下食品街ご愛用で、上に昇ったことなどめったにない。新館にはレストラン街ができたので、それで訪ねてみたわけだ。
食事のあと、トイレのところの窓から見下ろしたら、晴海側がよく見えた。
眼下には特徴のある、晴海通りを挟んで対称の位置にある二つの建物。
「おお、三原橋センターだ」
かつて晴海通りは、ここで三十間堀という運河を渡っていた。昭和20年、空襲を受けた東京は瓦礫の山の処理に苦しんだ。そこで銀座から東の大小の運河は、瓦礫を処理するためにどんどん埋め立てられてしまった。三十間堀はそうやって消えてしまった。その土地は民間に売却されたらしい。
当然、三原橋も消失してしまった——と思われていたけれど、実は近年になって「三原橋は残っている」という再発見の報があちこちから伝えられている。

どういうことかというと……、
どういうわけか三原橋の橋脚の下だけ、埋め立てられず空間として残されたのである。
その空間を利用して地下道が造られた。地下道の両側には店舗が設けられた。つまり地下街が出来ちゃったんである。どうもこのあたりの闇市に店舗をもっていた業者たちが、話しあってそのような方向へもっていったらしい。
それが今に残る(多くの人は知らないが)「三原橋センター」である。
その地下街の天井は湾曲している。かつての橋桁がそのまま梁として利用されているのである。
まさしく「三原橋は生き残った」のである。

で、その地下街の両端の出入り口に、対称的な二つのビルが建てられた。現在は三原橋センタービルなどと称せられているが、当初は「三原橋観光会館」のA館とB館と命名された。
写真の右手に見えるのがA館、左手、居酒屋『傅八』、『銀座シネパトス』というシアターコンプレックス(3幕)が入っているのがB館である。

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(↑これがB館。当初の雰囲気をよく残している。撮影2009年8月)

このビルを設計したのが、フランク・ロイド・ライトの直弟子だった土浦亀城(つちうら・かめき)だ。
土浦亀城はアメリカのライトの設計工房「タリアセン」で、信(のぶ)夫人と3年を過ごし、帰国した。ライトとしては自分の思想を日本に広めてくれる弟子だと思ったに違いないが、亀城は師を裏切る形でモダニズム建築に走る。
亀城の作品は、野々宮アパートなど、広く知られたものはどんどん毀されて、今残っているものはほとんど無い。最近は上野の西郷会館(大衆食堂じゅらくのあったビル)まで姿を消した。
その残り少ない作品の一つが、ここに見える三原橋センタービル2館なのである。A館のほうは囲われてしまって、B館との双子ビルだということが分からないほどだが、こうやって上からみると、左右対称に作られた双子の建築だということがよく分かる。
誰も指摘しないから私が言うのだけれども、土浦亀城はこの二つのビルを、かつての三原橋の欄干に見立てたのである。地下に生き埋めにされた三原橋の存在をせめて知らしめるために、ここにビルの形をした欄干を建設して、生き埋め橋の供養としたのであるよ。夢々疑うことなかれ。(笑)
どちらも建物の端角にRをもたせ、床から天井までの高い窓をもうけて見晴らしのよい、機能的な作りにしてある。私は左手のビルの二階にある『傅八』で酒を飲みながら、窓の外、晴海通りの夜景をおおいに楽しんだ。

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ちなみに私が土浦亀城に入れ込んだのは、実は夫人の信(のぶ)さんのファンだからである。長らく幻の恋人でもあった(いや、私より50歳は年上。思想家、吉野作造の長女。昭和初期を代表するモダンガールだった)。この夫婦は実にカッコよく昭和のモダニズムを具現し体現しつつ生き、1990年代に没した。彼らの住居は東京都指定重要文化財として品川区長者丸に現存している。
(下画像は土浦亀城・信夫妻)

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三原橋センターに関するサイトはいくつもある。下記を参照されたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/aromanonnon/21112252.html

http://www1.c3-net.ne.jp/hamachan/tetudou-ima-3-1.htm

私の土浦亀城夫妻に関する記述は以下を。

http://jun1tate.blog25.fc2.com/blog-date-200604-10.html


倒れた墓石

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4月2日の土曜日、ポカポカ陽気に誘われて青山方面にウォーキング。
大震災の影響など、東京はほとんどない。ただ放射性物質の降下を恐れてマスクをかけた人が目立つ程度。それとて花粉症のシーズンだからいつもの年と変わらない。
建物で倒壊したところなど皆無だろう。私の借りている高田馬場のマンションの事務所では、キッチンの壁の隅にヒビが入った、その程度だ。

しかし、青山墓地のなかを歩いていると、墓石が倒れている。
わりと新しそうな墓だ。どうも震災で倒れたものらしい。
他には見られなかったから、よほど施工が悪かったかしたのだろうか。

ただし墓石というのは地震に弱い。震災の地では墓石は軒並み倒れてしまう。
地震に対処するなど全然考えていない。
耐震性をもたせた墓の設計というのを考えるべきではないだろうか。
特に青山霊園は港区の避難場所として指定されている。ここに大勢の人たちが逃げてくる時、墓石がひっくりかえって人的被害が出ることも考えられるからね。

3.11 直後のスーパー

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3月11日は、余震がかなり激しかったので、私は一歩もマンションを出なかった。
ようやく外へ出てみたのは、翌日になってからだ。
都心、麻布の風景は、大地が時おり揺れるのを除けば、ふだんと変わりのない世界であった。
とりあえず当座の食料を確保……と、六本木ヒルズけやき坂下のスーパー『フードマガジン』へ赴き、二階の食品売り場にあがって「あッ」と思わず驚きの声をあげてしまった。
ほとんどすべての棚から食品が消えている。
8年以上、このスーパー(24時間やってる)に通っているが、こんな光景を見たのは初めてだった。
人が、災害が起きた時に真っ先に行動するのは、やはり食料の確保だろう。
私もそう考えていたが、ふだんはモノがあり余るほどの都心で、人がこのように行動するとはまったく考えていなかった。
「そうか、買いだめしなければダメなのか」
思ったけれどもう遅い。どこの商店からも「とりあえず食べられるもの」の姿が消えてしまっていたのだから。
それとトイレットペーパー。
まあ、家には米の買い置きもあったし、副食品などなんとでもなる。トイレットペーパーは二、三週間はもつほどあった。なにシャワートイレだから紙などなくても何とかなる。だから、考えてみればそんなに焦ることはなかった。しかし一時は背筋が寒くなったのも事実だ。
「みんながふつうに使う量だけ買っていれば、こういう全量消失という事態は起こらないのに」と言われるけど、目の前でみんなが買いだめに走っている時、超然としていられる人はいないだろう。
特に子供がいる家庭は。
「少しのんびりしすぎたかな」
反省した私は。それから数日は早起きして、買いにくくなった必需品、パンや牛乳などを入荷した直後に買った。いわゆる「買い出し」だ。
予想していたように一週間しないうちにほとんどの物資は潤沢に供給されるようになり(ガソリンはかなり逼迫していてクルマを使う人はしばらく不便を強いられたようだが)、私の買い出し行為も何日かで終わった。
「被災地のことを思えば、なんということない」
これがその間の我が家での合言葉だったが、たぶん全国どこの家庭でもそうだったのではないだろうか。
しかし、それでもあのがら空きの棚を見た時の衝撃は……。
画像を見返して、忘れないでおいたほうがいい記憶だと思い、このスーパーが廃業したあとになってアップロードしてく気になった。

(この画像を撮影したけやき坂のスーパー『フードマガジン』(西友系)は、2011年8月に閉店撤退した。9年間の営業であった)

2011年1月12日 (水)

陋屋の火災

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正月の2日、朝から上空をヘリがぶんぶんと飛ぶ。近所には米軍麻布ヘリポートがあるので、それなのかと思って腹を立てながら眠っていたが、起きてみて近所で火災があったとテレビニュースで知った。
空撮した情景から位置が分かった。
一軒家が焔に包まれている。まるでキャンプファイヤーの薪のようにバリバリ燃えている。
「えッ、あの家は……!?」
私の住まいから国立新美術館まで、住宅地のなかを歩いて10分ほどだが、その手前、5〜6分ぐらいの場所にある家。そこは前からすごく気になっていた。

二年前の正月、散歩の途中、前に建っていた家が取り壊されてようやくその陋屋が目についた。
最初はどうしたって廃屋だと思ったが、どうやら人が住んでいるらしいと知った時は衝撃だった。
それから一年、住人がいながら火を発した。あれだけの陋屋なら火の回りが早いのも当然だ。ほとんどアッという間に焼け落ちたに違いない。
ニュースによれば、老人夫婦の二人暮しで、八十七歳の夫は逃れたが、八十一歳の妻は焼死体で発見されたという。
すぐ近くの四、五軒のマンション、アパートに延焼したようで、マンションの3階から逃げ遅れた住人がはしご車で救出されるもようをテレビニューズがやっていた。

火事となると弥次馬と化す私だが、気づいた時は鎮火していたし、死者も出たというので意欲が失せた。翌三日、確認のために行ってみた。やはりあのアパートだった。
柱を数本残して跡形もない。
これほどの陋屋にひっそりと老後を送っていた夫婦はどのような人生を歩んだのだろうか。
それを思うと粛然とした気持になり、死者のために合掌せざるをえなかった。
以下に私のmixi日記からその陋屋を発見した経緯を抜粋しておこう。

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【これほどの陋屋】2009年1月5日


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以前から陋屋に関心があった。
廃屋寸前という感じで、しぶとく人が住んでいるのが陋屋。
見捨てられてしまい手がかけられなくなったら、それが廃屋。
探せばホームページのどこかに陋屋を集めたページがあるはずだ(自分で作っておいて、どこにあるか分からなくなってしまった(*_*;))

街を歩いていて「これは廃屋だな、これは陋屋だな」と鑑別?してゆき、陋屋と確認できた場合は「陋屋度」というのを採点しておく。最高点は99。(100になれば、それは廃屋だ)
これまで95点ぐらいが最高だった。ほとんど廃屋なんだけれどもなんとか住み暮らす最低の努力をしているランク。
今日見つけたのは、ほとんど99。わが陋屋採集記録でもベストワンだ。

いつもの散策路だった。これまで目に止まらなかったのは、建物に囲まれていたからだ。ほとんど囲繞地(いにょうち)にある。居住者がどのようにしてこの建物にたどり着いていたのかは不明だ。
それが最近になって、西と南の建物が相次いで取り壊され、見晴らしがよくなったことで、その姿を見ることが出来るようになった。


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いや、最初は驚きました。
建築工事用のシートで作られた応急のフェンスが張り巡らされていて、その上から見るもおぞましいような崩れかけた、いや、崩れてしまっている屋根や壁をもつ木造二階建てが見えた。
「うわわ、ここまでの廃屋というのも珍しいぞ」
呆れはてて角度を変えて写真を撮ってから、念のためシートの隙間から覗きこんでみた。

「おお、なんと……!」

入り口の戸板に新年を賀すお飾りが。(*o*;)


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いや、いくらなんでも住んではいないと思う。
思うけれども、壊さないでおいているのだから物置のようなものに使っているのだろう。ちゃんと管理されている(これを管理というのかどうか難しいが)証拠が正月のお飾りである。
だから廃屋ではない。陋屋度99点の陋屋なのである。

しかし……、どうしてここまでの状態になるまで保存しているのだろうか。何かよほど壊せない事情があるのだろうか。
消防署警察署などはどう考えているのだろうか。

ここは港区六本木。一等地とまではゆかないが二等地ぐらいではある(少し谷底になっているので)。地価だってバカにはならない。せいぜい十数坪ぐらいだろうが、数千万円にはなる。
たぶん係争物件になっているのだと思うが。
うーむ……。
この建物がいつまで姿をとどめるだろうか。


それから3週間後の1月29日には、こういう記述。

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それから、こないだ見つけた「究極の陋屋」がどんな様子かを見に行ってみた。
前回見つけたお飾りは外してあったが新しい発見。

洗濯物が干してある。

物置がわりかな、と思っていたが、やはりここに住んでいる人がいるんだ。
住人が末永く安楽に暮らせることを祈願せずにはいられなかった。でも大きな地震がきたらアウトだろうな。

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この陋屋では去年2010年もしめ飾りを飾ったのだろうか。
そして今年も……?

この陋屋にとどめを刺したのは地震ではなく、火事だった。
生き残った老人はこれからどこでどうやって生きてゆくのかなあ。

改めて死者に合掌。

2010年9月27日 (月)

異体字

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越中島にある東京スポーツ新聞社を訪ねたあと、門前仲町に出ようとして「古石場」というあたりを歩いていたら、戦前に作られたと思われる国旗掲揚柱が残っているのに気づいた。戦後は「国威宣揚」などとはまず言わないだろうからね。

しかし、刻まれた文字をよく見て驚いた。「国」という文字は旧字体(正体字)が「國」で、異体字には「圀」(水戸光圀の「圀」)があるぐらいしか知らなかった。
しかし、ここに使われてる異体字は……見たことがない。手元の漢和辞典を調べてみたが掲載されていない。
どうしてまた、こんな珍しい異体字を使ったものだろうか。

2010年7月21日 (水)

反薄明光線

今年の夏は、異常に夕焼け、朝焼けが美しい日が続く。華麗というより恐ろしいまでに美しい。地獄の業火を遠くから見ればこんなふうかな、という感じの美しさ。
「去年の夏もこんなに美しかったっけ、一昨年は……」と思い出してみようとするが、もう思い出せない。
なんでも、「気温が高ければ高いほど朝焼け夕焼けは美しい」らしい。赤い光の減衰率がなんとやらかんとやらだそうで、分かる人は教えてください。
なるほど撮影日は都心の最高気温は36度を越えていた。この時刻でも35度前後はあったのではないか。猛暑の夏だからこその華麗な落日ショーなんである。

この画像は都心の我がマンション屋上から撮影したものだが、地上5階の高さでも周囲の高層ビルに阻まれて落日を観ることができない。
だから上空を走る二本の幅広の筋が不思議に思えるのだけれど、これは落日の正面に聳える二本の雲の峰が作る影である。
気象学上、雲の隙間から太陽光線が射すのを「薄明光線」と言う。旭日旗は薄明光線を図案化したわけだ。
その反対に、太陽を雲が遮って帯状、柱状の影を作るのを「反薄明光線」という。この画像の二本の筋は反薄明光線の見本というわけだ。

太陽がまだ上のほうにあって、薄明光線が地表に柱のようにふり注ぐと、それは「天使の梯子」と呼ばれる。聖書に由来している。……興味のあるかたは調べてみて。

ところで、美しい夕焼け、朝焼けに必要不可欠なものはなんだろうか。
雲である。
雲がなければ太陽光線の反射もなく、夕焼けは起きない……はずだ。本当にそうなのか、日本晴れの時の落日を観てみたいものだ。

(撮影画像は2010年7月20日午後7時、港区西麻布から西方をみて)

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2010年6月20日 (日)

ショッピングモールの純粋階段

私は小田急線をめったに使わない。先日、代々木上原に行った帰り(行きは地下鉄・千代田線を使った)に新宿駅西口に降りた。たぶん初めてだと思う、JR南口に至るショッピングモール「モザイク通り」を抜けようとしたら、まん中あたりで足が止まった。

「こ、こ、これは……ひょっとしたら……純粋階段?(0_0;)」

モールの片側に階段があり、四段ほど上がると数歩歩いて、今度は下り。降りたところは……上がったところと同一平面。
そういう「ただ上がって降りるだけの目的しかない階段」を、トマソン学では「純粋階段」という。赤瀬川原平氏が発見した「四谷の純粋階段」がつとに知られているが、この世の中、いたるところに純粋階段は存在している。
しかし、そんなものが、大勢の人間がゾロゾロ歩いている繁華街のショッピングモールのど真ん中にあるとは……。

見て分かるとおり、何の役にもたっていない。ショーウインドウのなかの品物を見るにしても、もとの平面であったほうが見やすいぐらいだ。
何かの役に立つとしたら……うーん……いくら考えても分からない。

調べてみると、トマソン研究者の間では、この純粋階段は早くに気付かれていたようだ。その数年前の写真を見ると、手すりの側面についていたガラスは透明であった。それが今は半透明。ちゃんと手入れ管理がなされているのである。

ひとつ考えらえるのは、この下になにか隠したい、排除できない突起があるのではないかということ。それを覆うためにやむなく階段を作った……とすれば、分からないでもないが、さあ、果たしてどうだろうか。


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2010年6月 8日 (火)

高所恐怖人の悪夢

私は高いところに登るのが好きである。ただし、足場がしっかりしているなど、転落する恐れが少ないところ——という条件で。
落ちるから怖い、ということもあるが、危険性が高いところでは「あと一歩踏み出せば」「握ってるこれを離せば」現世とおさらばできる。おさらばしたい誘惑に駆られ、負けるのが怖いのかもしれない。
そういう高所は、下から撮影してるだけでなんか背筋がゾクゾクしてきて、足がむずむずする。
都会はそういう場所が案外多い。東京タワーには床が素通しのガラスになった場所があって、そこに立つとさすがに怖い。

さて先日、神宮外苑を歩いていると、ふと照明塔が目についた。国立競技場を照らす照明塔である。ずいぶん高いところにある。
そこに上ってゆくのはエレベーターではないらしい。望遠で撮ってみると、ハシゴが鉄塔にとり付けられている。作業員はここを登ってまた降りてくるのだ。

うーん、なにか寒気がしてきた。足先がむずむずする。私には無理だ。命綱をつけても無理だ。

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2010年6月 7日 (月)

このナンバープレートは……?

どうも twitter のほうが忙しくなって、ブログがおろそかになりがち。 twitter やってる人は皆さん、そのようですが。
あまり更新しないと忘れられちゃうので、Twitpic のネタですが。

西麻布で走っていたクルマ。ふつーの国産車ですけど、ナンバープレート見たら「あれ」と思いました。港区は各国外交官の○に外の字が入ったナンバープレートはよく見かけるんですけど、こういうアルファベット(OVA)というのは、私も初めて見ました。

クルマが出てきたのは「ハーディ・バラックス」。一般には「赤坂プレスセンター」と呼ばれていますがれっきとしたアメリカ陸軍の連絡ヘリ基地。中にはアメリカ政府や軍のスパイ組織、秘密活動組織があるのでは……と疑われています。
つまり、このクルマは在日アメリカ軍が使用している公用車のナンバープレート。OVAはOfficial Vehicle of Armyの略かと言われています。
基地周辺の住民には珍しくないのでしょうけどね。実は米軍基地は都心にもあるんですよ。

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(↓ハーディ・バラックスのゲート。クルマはここから出てきました)


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